昭和32年生まれの姉は、ポリオに罹患し、姉の授乳中母が結核に罹患したこともあり、重度の障害者となりました。幼児期はかろうじて歩けたようですが、保育園は行っていません。小学校は母の付き添いで。その時私は母のお腹にいて、6月30日、母は小学校の玄関で転んで産気づき、翌日私が産まれました。母は姉の登校に付き添いできなくなり、以来姉は在宅に。その事情を知った町内の民生委員の方が、「生まれたばかりの子がいて、しかも寝たきりのおばあちゃんもいて(祖母は私が生まれる数日前に脳梗塞で倒れたそうです)大変でしょう」ということで、こまどり学園を紹介され、姉は3年ほど学園に入ります。物心ついた頃、母と学園に行った記憶があります。年に1度、有名人!?の慰問がありました。当時の野球選手として大人気だった長嶋選手、黒江選手らが来られていた(その時はそんな人とは知らず。後に姉のノートにサインがあるのを見てわかりました)のですが、ともかく黒くて大きくて怖くてカーテンの中に隠れていたように思います。
私が保育園に行く頃には姉は再び家に戻り、以来長ーい在宅生活になります。
母によると、てんかん薬を金魚鉢に入れていたり、麻痺のない方の腕や足を訓練していたりしたそうで、十分に訓練を受けられないなら在宅でと覚悟したとのことでした。
おそらく、その時の母がほしかったのは、姉の居場所ではなく、母の話し相手やお茶のみ友達だったのではないかと、今、思えます。
その後、母は、毛糸や綿糸の小さい花を編む内職を始めるのですが(当時は子ども服にアップリケされてました)、近所のマダムたちを誘ってグループを作り、その取りまとめ役のようなことをしていました。工場から大量の毛糸や糸が届いたら、糸を巻いて(半分以上は私の役目お駄賃なし)マダムたちに配り、いつまでにどんなものを作るかを伝える(見本も必ず作っていたような)→マダムたちが作ったものを持ってくる→工場の人が取りに来る。学校から帰ったらマダムたちがお茶を飲んでよもやま話に花を咲かせ、そこに集配の若いお兄ちゃんが来たらもれなく巻き込まれていました。私はお茶を入れたりお菓子を補充したり。狭い我が家はほぼ毎日いろんな人が出入りしていました。(親戚も多いので盆、正月、お祭りはさらに賑やかに)
今の私を見たら、母はきっと「あら、昔もこうだったね」と言うんじゃないかなぁ
自分も、父の病気、在宅の姉、母の病気、子育てが同時進行した時期がかなり長く続きました。
誰に言おうかという発想もできず(忙しすぎて大変すぎて考えることができない感じ)、どうせ誰にもわかってもらえないという諦めみたいな気持ちもあり、どうにかこうにかやり過ごしてきたけれど。
「一緒にお茶しにいこうよケーキも美味しいみたいよ」そんなひとことで救われる人がたくさんいるんじゃないかなと思うようになりました。
長くなりました
あらためて貴重な機会を得たことに感謝します。